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 『わたしを離さないで 』
2011年10月19日 (水) | 編集 |
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで 』をちょっと前に読んだんで、ちょっくら感想でも。
結構読んでいるとき盛り上って読んだかも。どストライクではないけど、引っ張っていく展開だったし。

アマゾンの書評を見ていると、最後に思いがけない展開があるとか、いやいや最初から謎の内容はわかっていたよとか、あるいは末期がんのメタファーに見えるとか、いろいろあったんだけど、わたし個人的には、この小説の設定が近未来ではなく、パラレルワールドになっている点が仕掛けなのかな、と思ったんだけど、どうでしょう?

この小説に書かれる社会は、たまたまおそるべき新技術をまだ未熟な社会のうちに手にしてしまい、いまから新たにはじめようかということになったら大反対になるはずのその忌まわしいシステムを、すでに内包してしまっているためになすすべもなく続けている……みたいな。

なんか、いま日本を揺るがしている、アレと似てませんか、アレと。

主人公を取り囲む三角関係も、若いころに主人公の親友(?)がつい横恋慕してしまって、ベストカップルになるはずだった運命の二人を引き裂いてしまった……わけだけど、この親友は主人公に真相を告白して、間違いを修正するんだよね。
この、主人公たちのけなげな生き様みたいなものも、この社会で描かれている忌まわしいシステムの悲惨さを示すためにももちろん有益なんだろうし、この恋愛が盛り上ってないと最後の「訪問」が意味なくなるんだけど、同時にかつて犯した間違いを修正する、っていう展開にも意味があるのかな、と思ったり。

自分が死ぬときに過ちを修正する、ってのはまあ、良心の問題なわけで。

作者本人がどう意図したのかわからないけど、わたしには「間違ってることは正せ」というメッセージに見えなくはない。まあ、今の日本の状況だとそう読めてしまうなあ……。

翻訳的には、どうなんだろう、全文敬体で語るっていうスタイルは、アマゾンでも違和感があるという人がいたけど、わたしも違和感があったな~。
というか、一度読んだだけなので、これってどういうシチュエーションで、誰に向かって語ってるのかわかりにくかったんだけど、翻訳者はきっとそれを設定してこの文体にしたんだろうな~。(原作者に聞けたりするのかなあ?)

なんかNHKで番組やってたので録画したんだけど、まだ見てない。(そんなのばっかし)

ちゃんと書評書くときは、三回以上読んで、それなりに考えて書くんだけど(そのわりにたいした書評じゃないがっっ)、ここに書くのはこんな感じで気楽に書いていこうかと思います~。いま、手元に本がない状態で、記憶で書いてるし。
なんか致命的な間違いしてたりして……。(あとでなんか気づいたら修正しよう)
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 『90分でわかるフーコー』
2008年06月14日 (土) | 編集 |
またまたどえらく間が空いてしまいました。
(-_-;)
で、『90分でわかるフーコー』を読みました。

え~と、いままでのこのシリーズはよく知らない人について読んでたんだけど、フーコーは一応予備知識ありで読んだんだけど……予備知識ありで読んでみると、若干違和感がっ。
一番わかりやすく違和感があったのは、『言葉と物』についてのくだりで、
「ルネサンスを代表するはずの人物が無視されている。コペルニクスについて語られていない。ガリレオに言葉が費やされていない」
って言っているんだけど、これって意味ないんじゃないかと思ったのはわたしだけであろうかっ。
だって、コペルニクスとかガリレオは後世のわれわれの時代から見るとメジャーだけど、当時はマイナーなわけで、その時代のエピステーメーについて語るには例外すぎるんじゃないかと。
う~ん、その時代の人はその時代のエピステーメーから決して出られない、とフーコーが言っているのなら、たしかにコペルニクスはその時代のエピステーメーから出ていないと立証しなきゃいけないのかな。でも、もしそうなら、時代が変わっても決してエピステーメーは変化してないことになっちゃいそうなので、そんなことはないような気がするけど。

……という疑問についてちゃんと見当しようと思ったら、『言葉と物』も読まねばならないな~。
というか、もともと読まねばならないって。(遠い目)

ま、いまのコンディションだと『90分でわかるフーコー』のほうがあってます。とりあえず、エピステーメーについてはなんとなくわかったんで、よかったなあ。(みくろ・ぷーぶぉわぁーるとかしか知らなかったというもぐりなわたし。とほほ)
 古典。
2001年03月12日 (月) | 編集 |
某女優の息子で、覚せい剤でつかまった人、いましたね。(絶対名前書きませんよ。そんなことで有名になられちゃーおかしいっしょ?)その人物がつかまったあとに送った手紙とかいうのをこの前テレビで扱っていて、なんか十九世紀ぐらいの大作家かなんかを読んでるとかで……「やっぱり古典はいい」とかって書いてきてたらしい。
実はわたし、「やっぱり古典はいい」って言う人って、なんか権威主義っぽくて薄気味悪いというか、信用ならんのですけど、これって偏見っすかね??

そういやうちに『小説家・ライターになれる人、なれない人』って本があるんですけど、それによると作品というのは、感情は昔から同じもの、思想はその時代にあった新しいものを取り入れて書くのがいい……らしいっす。「ロミオとジュリエット」と「ウェスト・サイド・ストーリー」みたいなもんかなあ。で、思ったんだけど、わたしの古典アレルギーは、たぶんわたしがやや思想重視の評価基準を持ってるからのような気がっ。
……まあ、腐っても哲学科出身だからなー。アウシュビッツ・ヒロシマのあとに、その前と同じ基準でものは書けないだろう、という考えがあって……。
ま、古典ものは翻訳が古くて、漢字が多くて読みにくい、というどうしようもない理由もあるんっすけどね。とほほ。

そうそう、アイルトン・セナの言葉にもあったなー。「過去は未来を見るためのデータに過ぎない。ぼくは未来しか見ない」ってのが。実はこのセリフにはまったんだなー。さすが走る哲学者だっっ。
 来週の書評。
2001年03月09日 (金) | 編集 |
この前トゥーサンの新刊を買ったんで、いま読んでます。なかなか奇妙な作品ですね。でもこのままいくと来週の書評用の読書、できないんですけど……どうすべえか??

そういえば世の中にはつわものの人ってえのが一杯いて、その人たちはいかに難しい本でも一晩で読んじまうとか。やーね、そんなの。卑怯技じゃん。(それは違う)
んで、昔読んだ本によると、バカで凡人のわたしたちがそういう人たちに対抗するためには(ま、対抗しなくてもいいんっすけど)、「途中でいやにって投げ出した本は、『読んだ』にカウントする」しかないそうな。……するってえと、うちにバカほどある世界の名著っぽい積読ちゃんはみんな、「読んだ」ということになるわけですけどね……いやいや、よく考えてみると、買っては見たものの一行も読んでないやつもあるぜ。バフチンとかさ、ウルフとかさ、キルケゴールとかさ……。なんのために買ったんだろうか、わたし??

そうそう、もう一つわたしは言いたいことがある。世の中には英語で読み書きばしばしできちゃうつわものの人が一杯いて、その人たちは口をそろえて「英語は勉強すればできるようになる」と言う。まるで「できないのは怠惰だからである」といわんかばっかしだけどさ、でもわたしは最近この件について驚愕する情報を入手したんですよっ。いわく、英語を仕事できるレベルまでできるようにするにはIQ130以上必要、らしい。これ聞いたときは暴れましたね。そういうことは先に言ってくれ。どうりでなかなか英語できるようにならないはずだよ。何しろ英検準一級通すのに十年かかったぐらいじゃけんね。(なぜかこれをギャグにしている)

でもIQなんて所詮、左脳の能力判定してるだけなんだけども。まだまだ右脳の能力は未知数じゃっ。(右脳はもっと貧相だったりして……)
 お茶会。
2001年03月04日 (日) | 編集 |
昨日は喫茶店で三時間半もしゃべった。くたくたである。
本はトゥーサンの新刊、『セルフポートレート―異国にて』が出ていたので買ってきた。なぜか旅行記だった。しかも日本の。フランス人って日本好きだなあ。
メール・アドレスだけど、いまいちレスポンスが悪い。もう一つとって見ようかな……。(どつぼ)
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